工学院 1人ひとりの物語(2)

大学入学即退学即自由 

橋本紡さんの語りは、静かに、そしていきなり運命を感じる話から始まった。大学受験をめぐる家族との関係の話。三重の実家の父親や祖父の家族としての絆、自分の人生を先回りされる優しさと同時に制約をいかに断ち切るのか。

三重大受験をするが、白紙のまま答案を出し、東京の大学に合格する。そして入学一日で退学届を出す。家族からの距離のスケールは完全に無限になった。そして家族からも大学からも自由になり、はじめて自分の運命に立ち向かう態勢ができた。

大学受験という個人的な身近な出来事のはずなのに、合格という輝かしい道が開けたのに、すべてを捨てて暗闇に突き進む。しかし、それは人生は誰かに決められるのではなく、自分で決めるものだ。だから、身近なところから丁寧に自分でテークしていく。

図書委員は高校生だ。自分の進路をどうするか考えている真っ只中にいる。そこに橋本さんのこの話だ。どうなるのだろうとドキドキしたが、図書委員は、すぐに橋本さんの身体からあふれる言葉に共感していた。

それはそうである。図書委員は、橋本さん自身である本を読んでいる。橋本さんの人生の転機は、作品の転機でもある。それを図書委員は活字という言葉を通して受けとめてきたのだ。しかし、今は目の前に本物の声を通して響いているのである。

橋本さんは、小説を書くときにシナリオを予め用意しない。誰かに決められたり予め決めたものに従うことは、自分の運命を見失うことになるのだろう。まっすぐに自分の運命に立ち臨むがゆえに、世間と葛藤が生じてしまう。そのとき、世間に従うか、運命に立ち臨むか。

もちろん、運命を選ぶ。だから幾度も人生の転機を受け入れる。それを橋本さんは暗闇に突っこむと表現する。

橋本さんが語った小説家としての26年間の人生を、このサイトでまとめることなど不可能だし、図書委員1人ひとりがしっかり受けとめているからそれでよいわけだが、その転機を回転させる根源は、大学入学即退学即自由の瞬間がビックバンであったことに間違いはないだろう。

この自由のおかげで、他者のために消費するのではなく、自分のために消費する時間を確保できたという。毎日古本屋で手に入れた本を3冊読みまくった。読んでいるうちに書きたくなった。書いたら応募し、最終選考に残った。

とたんにどうでもよくなってしまった。まだ小説家の道を目指すという意識はまったくなかったからのようだし、このときは小説を書くことはゴールの定まらない暗闇を突っこむシンドサを感じたという。

それに食べるために仕事を見つけなければならなかったこともある。一か月だけ編集の仕事をした。当時は出版社の景気はバブリーだったから、地獄のような忙しさだったということだ。ところが、そのとき、文章を書くことが喜びでもあることに気づいたという。取材をし、編集をするが、その数が多く、身体の限界ギリギリのところで文章を書きまくる。すると、言葉が身体から自然とあふれでてくる感覚が顕れたという。ミュージシャンの旋律やリズムが身体の奥底からあふれ出てくる感覚と同じなのだと。

しかし、同時に編集はゴールが予め設定されていて、その制約の中で編集するのはおもしろいが、どこか違う。そう予定調和なのだ。

この状況は、自分の運命を直視することではない。危ないと感じた。そのとき今度は暗闇を突き進むのは、怖くないと思った。自分でリスクテークし、自分で選択する、自分で決める。どこまでも自由に自分で作り続けることができる。暗闇を突き進むことはこよなく自由な自分の道であり、編集者ではなく小説家になろうと。

もちろん、そのとき愛する人との出会いがあった。いつまでもフリーターではいられない。それで賞金額が高く締め切り間近な投稿先を見つけ応募した。その作品が『猫目狩り』で、金賞を受賞。しかし、それが電撃文庫で、ライトノベルというジャンルであったことは、自分の本が紀伊国屋書店に並ぶまでわからなかったという。

巧まず暗闇に突っこんでいったら、そこにライトノベルというジャンルがあったというのだ。ここでも運命は大きく回転するのだが、ここでは、それについて触れず、橋本さんのライトノベルに対する考え方を紹介しよう。

橋本さんは、芥川賞や直木賞などと電撃文庫の賞の違いについて語る。前者は権威が選ぶが、後者は読者が選ぶ。ここにも大学入学即退学即自由のモチーフが通奏低音のように響いている。

図書委員はその響きを暗闇の奥の猫の目の輝きに見ていた。

Twitter icon
Facebook icon