八雲学園の感性教育(1)

八雲学園(以降「八雲」)の体育祭は運動会ではない。芸術祭である。たしかにスポーツやダンスが目白押しであるが、それはミュージカルさながらの舞台であり、自分を表現し、友達と楽しむシーンを創り出す芸術の場である。舞台は、それを運営するプロデューサー、演出家、監督、舞台運営、デザイナーなど多様な人々によって、組織的にクリエイティブに創造されるアートパフォーマンス。

八雲学園の体育際でも、生徒は俳優になり、演出家になり、サポーターにもなるという、マルチロールプレイヤー。八雲の感性教育を体験した。(by 本間勇人:私立学校研究家)

感性教育のフレーム

お昼頃、近藤校長は、「今日の体育祭で、走者や演技者のみならず、会場全体を運営している生徒の姿をご覧になって、どう思いますか」と尋ねられた。「生徒さん1人ひとりの<自主性>」がすばらしいですね」と回答すると。「ありがとうございます。たしかに、生徒はがんばっていて、<自主性>を発揮しています。しかし、何でも自由にさせ放任しているというわけではないのです。そういう意味では<自主性>という言葉は、誤解されやすい言葉です。私はこの言葉を使うのには慎重になるのです」と。

開会式も、閉会式も1200名ほどの全校生徒が、てきぱきと集合し、一糸乱れることなく、凛とした姿を表す。ブラスバンド部の演奏に合わせ「若き力」を力をこめて歌う。自分たちのために、保護者のために、来賓者のために。

一方で昼食時のフィールドショーでは、サプライズ。国体などのスポーツ大会で盛り上げるポップなダンスをするメンバーが表れた。自己表現と公共の場の演出の一端を担うという精神が炸裂。

そこに、八雲ティーチャーズが参入。EXILEさながら生徒と踊る教師が出現。開会式・閉会式の凛とした姿とフィールドショーで踊る生徒と教師。どちらも非日常であるが、剛と柔というか、静と動というか、その切り替えの演出が、実は随所にある。

周りにいた体育祭実行委員の生徒に、これは予定されていたのと尋ねると、「いつものサプライズですから、あるということは予想していました(笑)。楽しい学校なのです」と。体育館の出入り口に待機している実行委員の数が半端ではない。観客席からみていると、その全貌は全く見えない。

「ものすごい汗だけれど、運動量は多いですか?」と質問してみると、「ずっと動いているし、自分も出番がありますから、たぶん実行委員はかなりの運動量だと思います」と笑顔で答えてくれた。近くにいた実行委員がどっと集まってきてありがとうございます!と。思わずシャッターを押した。

フィールドショーでは、チアリーダとブラスバンドもパフォーマンスしたが、やはりこの関係も動と静か。

そして、この二つの世界の登場と退出の「間」のよさが、観客を飽きさせない。学校のイベントなのだからプロじゃないのだからと、普通は、そこは甘くなる。生徒ががんばって走ったり演戯していたりしていればそれでよいのではないかと、モタモタする場面も多い。

教師が先頭になって、生徒に指示したり、自ら世話をしはじめるシーンはよく見られる。しかし、八雲の場合、教師はフィールドという舞台に姿をあらわさない。すべては生徒が運営している。

八雲は、そこは徹底しているのだ。一般的な意味での「自主性」に任せていたら、こうは進まない。「芸術鑑賞」が八雲の4つの教育の特色の1つであるが、それは舞台のバックヤードをしっかり感じ取ってくることだったのだ。

感性教育。感覚を研ぎ澄まし、自分の想いを表現するトレーニングだと単純に思っていたが。しかし、感覚―<?>―表現の、<?>の部分を磨き上げているのが、八雲だった。

フィールドショーの舞台でサプライズ演戯を終えた生徒たちは、バックヤードで称え合い、絆を確かめ合っていた。この姿はすべてのパフォーマンスの後に共通して行われる支え合いのセレモニーである。ここにも感覚と表現という2つの世界の関係を結ぶ何かがあった。

 

 

 

 

 

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