高橋先生によると、卒業生をみていると、中高時代に教科にこだわらずに、自分のテーマを中心に学んでいった生徒は、大学に進んでも探究心が持続している。たとえば、慶応の文学部に進学した卒業生は、心理学を学びたいと思っていた。だから、中高時代に心理学にかかわることであれば、教科をどんどんこえて興味と関心を広げていった。
その卒業生は、心理学を学びたいということもあって、やはり言語を介して理解をすることには非常に長けていたという。言葉を介することがおそらく思考ということなのだろう。
言葉と思考のかかわりについて、本橋先生は、数学もやはり言葉は大事であり、中高時代に、教科をこえて言葉の能力を鍛えておくことは、大学卒業後に、むしろ良い影響を与えるのではないかと。たとえば、MARCHと呼ばれている大学に進学した生徒が、東大をはじめとする大学院に進んでいるケースが、聖学院は多い。
教科をこえる言葉を活用する学びは、必ずしも大学受験勉強には直接有効でない場合があるので、高校卒業時点では、MARCHに進学ということになるけれども、大学で探求研究活動では、教科の勉強とはまったく違う思考、つまり言語を介する作業が重要になってきて、大学院のときには、研究のレベルで進学が決まるということになるのではないか。
やはり受験勉強マシーンでは、大学に入ってから、探求や研究につながらない。学びの持続可能性がいかにして可能なのかということが聖学院の思考力と大きくかかわっていることではないかと伊藤先生は語った。だから、前回の思考力セミナーでは、言葉、色、絵画、音など多様な言語を使って、子どもたちの想いをアウトプットするプログラムにした。
狭い意味での言葉の能力は、小学校6年生の段階では不得意でも、ほかの広い意味での言葉を使うのに長けていたとしたら、そこはその子どもの才能であり、その言葉をつかって思考力をもっていると評価できるのではないかと。
思考とは準備の過程というのは内田先生。準備が9割で、さあやろうというのは1割。ところが、今の時代は、その9割の準備をやらないで、のこりの1割のところで考えた気になっている。もし、どの教科も準備に時間をかけるようになると、思考が持続することになると思うと。
数学もその準備の段階で、数学史を学ぶということが実は重要であると。その場合は完全に言語を介して数学の原点について考えるわけで、数学だから言葉は関係ないということはないと本橋先生も。どうやら準備の時間がカットされて、教科に関係なく言葉が重要であることの実感が消えているのかもしれないと。
技術では、レゴのマインドストームを活用している。コンピュータでプログラミングをして、車を動かすところまでいく。これはプログラミングの試行錯誤の準備の時間が重要で、ただ動けばよいというものではない。内田先生は、技術というのは、極めて思考のモデルを見える化したものと考えるコトができるのではないかと。そして、思考力セミナーのワークショップで、初めて出会った受講生が互いに議論できる、いっしょにモノづくりができるのは、日本語としての言葉ではなく、思考のモデルが共通言語として働き出すからではないか。
マインドストームのプログラミングも、実際には人工言語で、言葉を介して作っていることに変わりはない。高橋先生は、英語に限らず、レゴのような言葉もある。レゴで組み立てた具体的なものを、英語や国語で使っている自然言語で抽象化して表現する。その具体的表現と抽象的表現を行ったり来たり往復できることが重要で、その往復できるパフォーマンスが思考力なのではないか。思考のモデルの具体的な作用は抽象と具体の運動ということか。
伊藤先生も最終的には自分の表現したいものは狭い意味での言葉で言語化、つまり抽象化できることが思考力ということのような気がする。今回の思考力セミナーで、小学生の段階では言語化できなくても、他の言葉で思考できれば、思考のモデルとしての共通言語が使えるのだから、中高一貫時代、あるいはその先で言語化できるようになると思う。
だから、小学生の段階では、どの言葉でもよいから思考する力があるかどうかがわかればよい。狭い意味での言葉の力があるかないかだけでは、のびしろがある生徒を排除してしまうことになる。
高橋先生は、具体と抽象の往復といっても、英語や数学という教科の中で往復するというよりも、他教科の具体性から抽象化するというのが、実は学びの体験になるのではないかと。少し過激だけれど、思考とは境界線を破壊していくということでもある。