毎年聖なる力が宿る高尾山を訪れる人は多い。しかし、その自然の懐に聖パウロ学園という人間の本質を保守し、将来子供たちが様々な問題に遭遇したときに、何よりもそこでかけがえのない生きる意味を見出して解決できる本当の学力が身につく教育を実施している私立高校があるのを知る人は少ない。
それだけに、知る人ぞ知る人気校でもある。その聖パウロ学園が、進学校化する数多くのカトリック校の中で、カトリック教育の原点に帰る活動を開始する。カトリック学校のミッションは、生きる意味の深さを自ら創り出す本当の学力を子どもたちが身につけられるようにすることなのではないかと。by本間勇人:私立学校研究家
(高橋博理事長・校長 国連で、あらゆる民族あらゆる宗教あらゆる政治経済の信条を乗り越え手をつなぐルールであるとされる聖書の黄金律の言葉の空間で。)
高橋理事長・校長は、自己否定感を背負って入学してくる多くの生徒と接しながら、これは彼ら一人一人の自己責任ではなく、社会の問題であると認識している。そしてこの自己否定感を自己肯定感に転換できるようになる教育を実践していく信念を学内の先生方と共有している。
その自己肯定感を抱きながら、自分の進路を切り拓いていける本当の学力は、そのように教育されるのであろうか。それは一つには、きめ細かい一人ひとりにエールを贈りながら、進路実現の力をつける進路指導にあることは間違いない。
その指導は、学力の量の競争ではなく、たとえば、小論文コンクールのように、考え方や感じ方の思考や表現の質の競争を行うところにも、モチベーションを内燃させる仕掛けがある。聖書には、自分の利益のための競争は否定するが、他者を支援するモチベーションを豊かにする競争は大いに奨励している。聖パウロ学園の進路指導は、そういう意味では促進教育である。進学に必要な学力内容をモチベーションを高めながらアクセルを踏み込んで促進していくからである。
しかしながら、この促進教育において大切なのは、ものの見方感じ方である。これは机の上だけではなかなか豊かにならない。どうしても貴重な体験が必要だ。幸い聖パウロ学園は高尾の自然の恩恵に浴している。豊かな森は、すがすがしい空気を恵んでくれる。山の起伏は、そこを日々散策するだけで身体を鍛えてくれる。なんといっても広大な敷地は、都心ではなかなかできない多様な部活をキャンパス内で行うこともできる。
しかも、山の恵みは、当然だが、人間ばかりでなく動植物にとっても良き影響を与える。だから、他の学校にはない教育ができる。乗馬がそれである。
乗馬は、欧米の私立学校では、ノーブレスオブリージュの精神を養う重要なジェントルマン教育の1つである。東京都内でこんな破格な教育ができるのは同校だけだろう。
しかし、高尾の中で静かに観想的な教育を行っているわけではない。イタリアのアッシジの丘にも修学旅行に行き、
バチカンでローマ法王に謁見したり、システナ礼拝堂を訪れたりする。
近代世界がいかにして生まれたか、その近代の光と影は、今のグローバルイシューにどんな関係があるのか。そして、そこで自分はどんな生きる意味を生成することが可能なのか。リサーチ、ディスカッション、レポート編集という事前学習と実際のイタリア・フィールドワークで感じたことを結び付けて、帰国後、クリエイティブプレゼンテーションを行っている。
この高尾の自然とアッシジの自然を体験するプログラムこそ、豊かなものの見方・感じ方を生み出すエンリッチメント教育である。
だがしかし、高橋校長は、かく語られる。
「すべてのカトリック学校が、キリスト教のミッションを前面に押し出す教育をしているとは限らないし、それはまた日本や世界のポスト近代化の影の部分に翻弄されている部分であることも否めない。
だからこそカトリック学校は一丸となって、この影に立ち臨まねばならないのだが、その共通のキーを見いだせていない。聖パウロ学園のような教育をといっても、都心のど真ん中にあるカトリック校が、ネイチャープログラムや乗馬をキャンパス内で行うのははなから無理である。
影の向こうの光を阻んでいる扉を拓く共通のキーはどこにあるのだろうか。」
(髙橋校長のインタビューから、イメージを本間が描いた。)
そして、髙橋校長は、「進路指導のような促進教育(アクセラレーション)と部活やネイチャープログラム、イタリア修学旅行のような拡充教育(エンリッチメント)の両方を生徒自身が内燃させる本質は、実は授業にある。しかし、その授業でそのようなエッセンスがどのように行われているかは暗黙知のままである。これでは、他のカトリック校とエッセンスとしての共通のキーを共有できない。今年は、この暗黙知をプロトタイプ化してみようと思っているのだ」と語る。
すると、副校長倉橋和昭先生は、「授業のプロトタイプをつくる小さなプロジェクトを立ち上げていきます。期待していてください」と目を輝かせて語られた。
自分の学校だけではなく、他のカトリック校や日本の教育にまで影響を与える野の菫のような活動が始まる。まさに「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(『マタイによる福音書』7章12節)という黄金律は聖パウロ学園にぶどうの木の樹液のように脈々と流れているのである。