富士見丘 本物のグローバル教育をゆく (4)

富士見丘のグローバル教育の基礎は人間力育成にあるのだが、人間力の育成の奥義は通常授業にあった。

-―自主研究「5×2」の教育システムは、生徒1人ひとりが、自分のテーマを深めていく過程で、内から外に自己開示してゆき、外のネットワークとつながっていくということはわかりました。しかし、それは「5×2」の「2」の部分のお話で、「5」の部分である通常授業はやはり教える授業なのでしょうか。そうすると、他の学校でもよく語られるように、月曜日から金曜日までは受験指導で、土曜日は教養教育というわりきった考え方という理解でよいのでしょうか。

白鶯先生:教える授業であるというのは、そうですが、受験指導をやっているというのは違いますね。そのような割り切り方だと、「5×2」という表現である必要がない。「5+2」でよいわけです。しかし、そうではないのです。

大島先生:教えることも必要ですが、何を教えるかということが一般的な教える授業と違うということですね。

――「教える授業」だけれど、「教えない授業」ということですか?

白鶯先生:そういうレトリカルな話でもないのです。普通に知識は教えます。しかし、知識がないと考えられないでしょうという感覚とはちょっと違うのです。というのもどんなに知識があっても、実は思考に飛べない場合はいっぱいあります。

大島先生:つまり知識と思考を介する何らかのものが、通常授業できちんと作られているから、知識を思考の時点で動員できるし、新しい知識を組み込むんだり、リンクできるのです。

白鶯先生:結局思考も、知識を網の目に結び付けておかないと、考える時にある気になるトピックキーワードを引っ張ったときに、それにつながってくる知識が汲み取れない。すると思考は停止してしまうでしょう。

それに知識を網の目にしてつないでおくと、新たな知識を同じように網の目に結っていけばよいわけですから、知識はどんどん増えるわけです。

大島先生:だから、知識不要論は過誤ですね。知識を網の目で結んでいくことは、すでにそこから限りなく思考に近づいていくわけで、IBで求める「Knowledgeable 知識のある人」というのは、知識を覚えている人ではなく、知識が何に結びつくかその可能性(able)を開いている人ということでしょう。それをわかりやすく比喩で「網の目」と表現しているわけです。

白鶯先生:「網の目」ではなく「体系」でよいのですが、日本語の「体系」という言葉は、どうも堅固性や排他性が強調されて、柔軟で寛容なイメージがない。新しい知識と結びついた網の目は、新しい網の目として変容するわけです。破壊と創造の状況が起こるわけです。

大島先生:この知識を情報と置き換えると、コミュニケーションのやりとりは、互いにそれぞれの網の目を持った人と人が情報交換して、新たな網の目ができて創造的になるから、新たなアイデアが生まれ、おもしろくなって、もっとネットワークを広げていこうと知的好奇心も大きくなるのです。逆に網の目を持っていない人どうしだと、見た目はコミュニケーションしているけれど、内実はたがいに独り言をいい合っているだけということになりかねません。

白鶯先生:富士見丘では、多くの知識を点のままバラバラにしておくのは授業ではありません。網の目のように互いにつながっていなくてはならないのです。そして独りよがりな網の目でも困るのです。それでは、リーズナブルな論理が展開できません。ですから、授業で扱う知識の網の目は、標準形なのです。それが自分のテーマを探究している中で、他者とのネットワークによって、変容していく。もしその網の目が標準形から出発すれば、その生徒の新しい知識の網の目は、個性のある知恵として社会に支持されるでしょう。もし好き勝手な網の目でコミュニケーションをしていくと、その新しい知は独善的として社会から支持は受けないでしょう。

――富士見丘の通常授業の学びに、未来の生徒のライフスタイルの種がすでにできているということですね。もしも網の目を作らなければ、限られた職場で限られた知識を反復する労働しかできないでしょうし、網の目の標準形ができれば、マネジメントの仕事までできる。そして、オリジナリティのある網の目を創り出すことができれば、グローバル社会で創造的な仕事で活躍できるということですね。富士見丘のグローバル教育の基礎である自主研究「5×2」の重みがズシンと伝わってきました。本日はありがとうございました。

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