留学生との対話は、日本文化論の入り口にさしかかった。秋葉原や渋谷にも行ったが、ミュンヘンと違い新しい感覚が大好きだという。電車には感動したというから、フライブルグなどの環境に優しい電車トラムや自転車の道路の方がと思ったが、彼女がクールでスマートだというのは、PASMOの機能だった。
三田国際学園の在校生は、たしかに便利だけれど、今となっては当たり前で、感動することでもないが、留学生の感覚を通して、日本の文化のすてきなところを再発見できると語っていた。
それにしても、欧米の留学生の多くは、日本のアニメが好きだ。今回もやはりそうで、「トーキョーグルー」という最新作が好きだという。在校生は読んでいないというから、やはりすごい。
ドイツ人はみんなバウムクーヘンを毎日食べていると思ったらそうではなかったと在校生は語っていたが、これは日本人にもあてはまる。日本人はみな最新作のアニメの情報をカバーしているわけではないのである。異文化理解は、この先入観が砕けるところからはじまるが、今回の交流もお互いにそこから始まっている。
それはともかく、PASMOに感動することと「トーキョーグルー」が好きだという2つのことには、共通しているというところがある。現象にとらわれると、便利だとか怖いマンガだということになるが、共通のテーマは「越境」である。
現代日本人は、その生活がロボット技術と共存することで成り立っている。人間とロボットの越境に抵抗はない。ところが、ドイツ人は伝統的に人間存在と技術の共存にはクリティカルシンキングを発動してきた。
留学生は、そこから脱してきて、伝統より新しい日本の姿を称えている。「トーキョーグルー」も人間と怪物のヤヌスの顔をもってしまった主人公の葛藤と問題解決の物語である。ミュンヘンと言えば、マックス・ウェーバーやフロイトの街である。
無意識の怪物と超自我の聖なる心の葛藤と解決の旅にさすらうのが流儀である。もちろん留学生は無意識であろうが、日本にアメリカに、もっとほかに旅をしたい。そのために7年間、独学で日本語を勉強した。この過程こそ、さすらい人の素養たっぷりである。
(ダビンチの「受胎告知」で描かれている大天使ガブリエルのピースサインで!)
実はこれは欧米人の外国語習得の当たり前の姿であるが、三田国際の在校生にはショックだった。学校で学ぶものだと思っていたという。
そういう挑戦者である留学生は、それゆえ将来作家になりたいのだと。在校生はまた目をまるくして、自分たちは、まだ未来のイメージを固めていないと驚く。しかし、留学生は、人それぞれだから、大丈夫よと。
在校生は、またまたそのポジティブシンキングに文化というか価値観の違いに驚愕する。
ここには、夏目漱石が、異文化を旅して、最後には日本の異界である妖怪の世界をさすらって作家になった小泉八雲にコンプレックスを抱いたのと同じ心性が横たわっていた。このコンプレックスを乗り越えたのが明治の若者たちである。
どうやら、三田国際の教師と生徒はあの激動の明治時代の若者の息吹と呼吸を1つにしはじめたようだ。