三田国際 異次元の授業全面展開(3)

三田国際のSGTマスター田中先生の授業は、穏やかで凄まじき対話が響き続ける。おそらく他校では真似のできないオリジナリティである。そのオリジナリティとは、本質の本質に迫る眼差しなのだ。通常の本質論者は、常に本質の物神化というジレンマに陥る。そのジレンマに陥らないためにはどうするか、本質を本質のままに大切にすることはいかにして可能かということがテーマになっている小論文指導は、どこの学校でも行われている。

そしてそんな本質の物神化という大きな物語はすでにないことは、1989年以降、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」で世を騒然とさせたことは記憶に新しいだろう。もはや、本質と経済社会の市場経済を統合することによって、欲望金融経済社会の魔の手から子どもたちの未来を守ることができるのだというテーゼは幻想であり、フェイクである。残念ながら、サンデル教授、トマ・ピケティ教授の書籍がベストセラーとして、まさに本質の物神化の権化になっているというパラドクス!これが物語りなき現代社会の相変わらずの罠なのだ。

田中先生は、こんなトーンの表現を静かに授業の後半にもってくる。それまでは、たとえば「8日目の蝉」という小説の隠喩を解き明かさせるアクティブラーニング。ドラマ化された作品でもあるから、生徒は楽しげに議論をする。

もちろん、それでよい。授業は知的に楽しくなくては!しかし、生徒はこの知的に楽しい議論ができる環境があるのは三田国際だからだということにまだ気づかない。もしも、この三田国際というコミュニティ以外の場所に自分がいたとしたら、物語りなき解なき社会で余裕をもって議論なんてできているのだろうか。

しかし、「8日目の蝉」の隠喩を読み解く過程で、物語がないところから出発せざるを得ない主人公の気持ちにぶち当たる。主人公は過去に誰に傷つけられたわけでもないが、過去をもたないキャラクターとして描かれていることにだんだん気づいていく。

このかつてはあったはずの共同体の既定の物語に沿って、人間を理解し、その物語の中で悲喜劇を判断すればよかったのだが、それができない。この主人公は悲しき状態なのか、意味のない存在なのか?涙を流す行為は、共同体があって初めて成り立つから、涙も流せない。。。主人公が属する共同体は空虚から始まる。トラウマなき空虚。それは悲しいことなのか、不幸なことなのか、涙すべきことなのか。。。

生徒たちは、大きな物語がなくなっているのに、まだ近代社会の共同体の回復を夢見る団塊断層の世代の大人たちの「本質こそ大切だ」という道徳には心を動かされることはない。

しかし、ポストモダン的な価値相対主義者がかたる新人類世代の「本質なんてない、幻想なんだ」という言葉にも耳を貸さない。

大人たちの言う本質とは違う本質。本質なんてないんだといっても前提に本質を認めている逆説的な物言いに対する違和感を持ち続けている。もちろん、明快に意識をしているわけではないだろうが。しかしミレニアル世代あるいはi世代である彼らにとって、信じられる共同体は脳神経が反応し映し出す新しい意味である。それをどうやって物語るのかそこが問題だ。

SGTマスター田中先生は、近代化を表現したヘーゲルやカントを現存在から引き離し存在という根源に還ろうとしたハイデガーをも批判したデリダその弟子のカトリーヌ・マラブーの哲学を生徒たちに語る。生徒たちは、ここれだ!と楽しげな議論をやめて、真剣に耳を傾け眼差しを田中先生に向ける。

物語りなき現代社会において、誰かに物語をつくる前提をつくってもらうのではなく、自分ならどうするのか?そんなことできるのか?まるで幕府という共同体が崩壊し、新しい明治近代社会を自らの手でつくらなければならなかった吉田松陰、福沢諭吉、江原素六、新島襄、渋沢栄一といった私学人にシンクロするかのように田中先生は静かに問いかける。「君の志はなんですか」。三田国際の高1の探求授業、そしてそれは同時に生徒1人ひとりの志と勇気の物語づくりでもある。三田国際の魂の授業が始まった。

 

 

 

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