八雲学園の感性教育(3)

八雲の体育祭体験から、重要な問いを投げかけられた「感覚―something―表現」「思いやる―something―支え合う」という2つの軸をどう考えるのか、somethingとは何であるのか。そのヒントは体育祭実行員という、プロデューサー、デザイナー、舞台設定役、タイムマネジメント役、誘導役などのまマルチプレイヤーの存在である。彼女たちは、まるで劇団のバックヤードの動きさながら組織的に活動するのだ。

体育祭実行委員のコミュニケーション手段

競技や演戯が、滞ることなく進行する。それを促したりモニタリングするコミュニケーションはどうするのか?スタートの合図を知らせるチームは常に3人。なぜか?スタート地点のセッティングなどを複眼で見るためだけではない。そのうちの一人が、紅白の旗を持っているのにお気づきだろうか。

実は、この旗があらゆる役割のコミュニケーションを円滑に進めるツールなのである。全体の司令塔が、観客から見えない体育館のフィールドの端にいる。そこからタイムマネジメントの信号が旗で伝えられている。役割はいっぱいあるが、メッセージは紅白の旗だけで行う。このシンプルなコミュニケーションが、複雑な運営をスムーズに進めていたのである。

シンプルな感覚が複雑なパフォーマンスを生み出している。アートのセオリーではないか。光と影のシンプルなメッセージが彩色豊かなアートを創造する。

体育祭実行委員 バックヤードで

観客には見えないが、閉会式で近藤校長が、賞状・優勝杯授与を行うとき、実行委員は奔走する。まるで、役者をサポートするときのような動きだ。

バックヤードでは、発表者の優勝者の名前やクラスのランキングについて、確認し合う話し合いが瞬時に行われている。実行委員は、「こればかりは、リハーサルができないのです。授与する生徒やクラスは、たった今決まり、集計されたばかりですからね」と語ってくれた。

近藤校長が、<自主性>という言葉は軽く使えないというのは、こういうことだったのかと合点がいった。生徒1人ひとりが自分の判断でやっているわけではなかった。かといって、ただ指示に従っていては咄嗟の判断がきかない。

高3生というロールモデルがあり、進行方法という伝統の積み上げがあり、それを1つひとつ受け入れ、尊重し、信頼し、友と支え合いながら生まれてくる言動と演出という創り出す意志は、個人の<自主性>だけで、できるものではないし、1人ひとりの限界を超えて新たな挑戦ができるわけでもないのである。

体育祭終了後、高3の実行委員長が話してくれた。

「この実行委員の体験は、まわりや全体の動きを視る目を育ててくれました。また、合唱コンと同じで、学年全体でがんばる気持ちが1つになっていく姿を見ることができ、みんながやる気になる瞬間をつくる役割が何か実感できましたね。みんながやる気になるには、みんなが支え合うことによってです。学年の中での支え合い、学年と学年の支え合い、先生によるサポートなどがあります。支え合うこと、支えられることに、素直になることが大切であるということも理解できました。がまんしないで、自分を抑えないで、信頼し合って、自分を表現していくということでしょうか。」

「自分を抑えないということはとても重要です。抑えたら楽しめないのです。やる気は、楽しいところから始まります。八雲はみんな仲良しですから、そこはみなよくわかっています。」

実行委員長は、体育祭と合唱コンは、一方はスポーツ、もう一方は音楽という違いがあるが、一つの活動をいっしょに行うことによって、やる気を一つにできるという点では、目標とするところは共通しているという高いものの見方を持っている。与えられた紙上の問題よりも、体験の中で生まれてきた問題を解決しようという八雲の感性教育は、確実に、考え方のレベルをアップし、ものの見方を豊かにしている。

さて、somethingは何だったのだろう?それは、今後の宿題としたい。

 

 

 

 

 

 

 

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