■自己認識の構造
大島教頭のねらいは、中1から私とは何者であるかの回答を探すことではない。それはこれからいろいろな「体験」をし、「海外研修」で多様性を実感し、「自主研究5×2」を通して、見つけていくこと、いやサタデープログラム 『5×2セレクション~知の探求2013~』で、卒業生のプレゼンに耳を傾むけていて思ったのだが、自分の核はすでにあるというところから出発していた。
つまり、6年間、そして卒業後もその核の可能性を広げている「自分」に気づいていくということのようだ。だから回答を今から決めてもらっては困る。ただ、ではどうやってその可能性を広げていくのだろうか?これがダブルクエスチョンの2つ目の暗黙知としての問いである。
富士見丘学園の生徒は卒業生のアドバイスを聴くチャンスがたくさんある。そこで先輩方の自分の可能性を広げる「自己認識」の方法を学ぶ。しかし、それは強力なモデルであるが、真似の域からどこかで離脱しなければならない。それはいかにして可能なのか?
だから大島教頭は「哲学教室」を中学から開講したのである。
■3人の自分
実はこの哲学教室では、生徒たちは3人の自分を体験する。「仲間と話している自分」「問いを投げられて回答を考えている自分」「仲間と話したり、考えたりしている自分を見ている自分」。この3つの自分は、このような「哲学教室」がないと、日常生活ではなかなか気づかない。
日常生活では、問いはほとんど自問自答している。いやもしかしたら、覚えることに終始し、考えていないかもしれない。しかし、この3つの対話空間では、仲間と話している自分を、仲間と話している他のメンバーの姿を見ることによって、気づくのである。実はこの他のメンバーの対話は、「鏡」である。
大島教頭から問いを投げられたとき、ダブルクエスチョンであるコトに気づいたときに、そのズレで戸惑っている自分の存在に気づく。大島教頭もまた「鏡」である。
そして伏線が明らかになる。品田副校長と最後に振り返りを行ったとき、今回の時間全貌を見渡している自分がいることに。品田副校長もまた「鏡」である。もちろん、ラカンの鏡像段階論の素材のように、物質的な「鏡」ではない。「鏡」は「関係」とか「かかわり」とか「絆」という言葉に置き換えることで、「自己認識」が3つの「かかわり」によって可能になり、3つが在ることによって、可能性は広がっていくのである。
富士見丘学園の究極の学びは、覚えるコトでも、教わるコトでもない。考えるコトに他ならない。
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