内田先生の中2の国語のクラスについたとき、授業の展開は、半ばを過ぎていた。扉を開くと、ちょうど、ダッシュとエリプシスリーダーの記号表現を板書しながら、その意味や機能について問いかけていたところだった。
生徒からは、言葉で言い切れないとき使うのではと解答が返ってきた。内田先生は、この物語の場面の状況に即して、言い換えてみてくださいと。すると、言い返す言葉が見つからないという意味で、言葉が見つからなかったのですと。
内田先生は、そのことばをすばやく黒板に書き写しながら、すぐにその状況は登場人物のどのような心の状況を表しているのですかと問いかけた。
と、生徒は、堰を切ったように、、次々と自分の考えを述べていく。
そして、内田先生は、生徒の言葉をていねいに瞬時に板書していった。カメラを通して見ていると、その学びの世界が不思議な場所にワープしている感覚に包まれた。チョークの音は、いつの間にかキツツキの木を叩く音と速さになり、その木霊にのって、生徒は歌っているかのようだったのである。
あっという間の問答の世界。25分は、ほんの数秒のように過ぎていった。すごいと息をのんだ瞬間だった。内田先生は、監督のジレンマがどうして起こるのかを考える前に、どんなときにダブルバインドの状況になるのか、生徒自身に問いかけた。
小説テキストの枠内からはみでて、自分を振り返させた瞬間だった。もはやここからはシナリオはない。決断できない、ギリギリの状況について、生徒は自らを振りかえりはじめた。
自分の主義だけを通せたらそれは迷わない。自分の意志を通すことで、仲間も幸せになるのか、その逆なのか複雑な想いを語った。自分自身一つの立場や役割を担うわけでなく、いろいろな役割を担うから、自分の判断もブレそうになる・・・。
それを聞いて、内田先生は、そういう自分はどういう人間だのだろう。そして、この小説の中の監督はどういうペルソナの持ち主なのだろうと問うた。授業はそこで終わったが、迷う人間んのことを、弱い人間とか優柔不断な性格とかレッテル張りしがちな世にあって、生徒たちの眼差しは、真実に向かって深く考える時間を共有したことは確かだった。
それにしても、一般に、言語の限界は世界の限界であると、テキストから一歩もでない安全圏で、授業はシナリオ通り展開していくものだが、内田先生の授業は、生徒の思想を言葉に乗せて問答を行う次元から、言葉から思いがあふれる問答の次元に転換する密度の高い授業であった。
内田先生は渡辺校長と、「ことば」は、「もの」から「こと」に転換しなければ授業ではないといつも語っているが、まさにこれだと合点がいった。