聖パウロ学園の夏期合宿の通奏低音は「対話」であるが、実はこの通奏低音は、聖パウロ学園の教育全体に響いている。しかし、それが夏期合宿の時は、前面に出てくるのである。それはまるで、無伴奏チェロソナタの曲が流れているかのごとくだった。あるいはパイプオルガンの重低音の響きだったか。
この重低音が強烈に響いたのは、夜8時からの自学自習の時だった。生徒たちは、午前中の授業で終わらなかったところを、もう一時間だけ自学自習の時間に補ってもらうことにした。
副校長の倉橋先生と副担任で英語科の先生もやってきた。過去問の英語の長文を読解する授業というより、教師と生徒の対話が始まった。聖パウロ学園は、ルネサンスを学びに、毎年イタリア修学旅行が行われている。事前学習・事後学習でもかなりリサーチをして、プレゼンをする探求学習が行われているが、倉橋先生の授業は、まさにルネサンス期のダビンチ工房さながらの雰囲気になっていた。
どういうことかというと、生徒たちは文法と辞書を手掛かりに、英語を日本語に置き換えていく。しかし、倉橋先生がその内容について質問すると、置き換えているだけで、内容の理解が深まっていないことに、生徒たちは気づく。
倉橋先生の語る内容の深まりというのは、味わい深いなんらかのものという曖昧なものでは全くなかった。
その英文理解の授業は、大学や大学院で行うリベラールアーツ的な原文購読の分析や解釈に近かった。そうなのである。ルネサンスは、まさに古代ギリシャ、古代ローマ、中世カトリックに受け継がれてきたリベラルアーツを学問的な頂点に引き上げ、その後近代科学がその大切な精神を捨てて科学主義を生み出す分岐点でもあった。
聖パウロ学園は、この大切なリベラルアーツの魂を継承すべくイタリアルネサンスを学んでいたのではないか。倉橋先生のダビンチ工房、つまりマイスター的な学びの伝承授業は、まさにその結晶体だった。
リベラルアーツにおいて、「言語」は極めて重要であるが、それは文法論だけではなく、文体やレトリック、論理学、雄弁論などかなり複合的な構築物である。それは大学入試で出題される英文も同じことなのだと倉橋先生は語る。
だから、
・文法
・コンテクスト
・語順
・レトリック
・文体
・言葉の多義性
・時代のパースペクティブ
・科学のものの見方・パラダイム
などについて、問答を行っていくのである。
情景イメージや背景が立ち上がり、その時テーマだった「真の科学者」とはいかなるものなのか理解が深まっていくのである。
倉橋先生は、「英語はコミュニケーションのツールであるのは確かですが、考えることそのものでもあります。私たちが母国語で考える時、その言葉は思想そのものになっているでしょう。英語も最終的にはそこまでいけるとよいと思っているのです」と語る。
だから、たとえば、stationという単語がでてきたら、パワーステーションなどのような関連語を並べ、それぞれの意味を考えさせる。すると生徒たちはstationという意味が、外的な空間や内的空間で意味の広がりがあることをなるほどと理解する。
単語1つの背景にあるコンセプトをわかりやすい言い回しや事例で明らかになっていく明快な深まりの過程を生徒はしっかりと感じ取る。
知識としての単語から考える根っこを引き出すことばに変化する瞬間。倉橋先生のリベラルアーツの真骨頂であり、聖パウロ学園の教育の通奏低音の響きでもある。
この響きは、倉橋先生から生徒に受け継がれるだけではなく、ともに学んでいる若き教員にも引き継がれていく。まさに現代版マイスター制が息づいている。
生徒とたちは、今は気づいていないかもしれないが、受験勉強を通しても学問に接することができた教育環境が、聖パウロにはあったと思い起こすときが来るだろう。