東京女子学園 模擬裁判でActive Learning(2)

最終意見陳述が終了後、いよいよ判決を決める段取りとなった。裁判官と裁判員の役の生徒は、別室で判決を決めるために議論。傍聴人と検察官、弁護人の役の生徒は、そのまま残り、判決がどうなるのか、自分たちなりの考えをぶつけあった。

今回の模擬裁判シナリオは「渋谷現住建造物等放火事件」であるため、執行猶予はない。有罪か無罪かどちらかである。量刑の判断はあるものの。主文は極めて明快で、白か黒かなのであるが、これが議論を白熱させた。

しかし、どんなに「証拠」が真なのか偽なのか議論しても、シナリオ上は情報が少ないから、どちらの立場にたっても、ぎりぎりのところでは推量の域をでない。弁護士は、完全にファシリテート役に徹して、六法全書上の情報は、質問されれば回答する程度。

あとは、何回か有罪か無罪か手をあげてもらい、どちらの考えが説得力があるか、そのメンバーの心境を確認する程度。もしも弁護士が「疑わしきは罰せず」というアドバイスをすると、検察側の挙証責任が怪しい気配になり、被告人側にとって合理的な疑いの弁論になって、圧倒的に無罪になるだろう。

しかし、そのことは生徒の側もわかっていたから、「証拠」の真偽の議論から、価値観の議論にシフトしていった。有罪側は、法治主義的な立場から、社会の秩序を守るために、社会的矯正が必要であるというところに論点をおいて、無罪側を説得。

一方無罪側は、法の支配的な立場から、個人の将来を大切にし、冤罪を防ぐためには、無罪なのだと主張。互いに「証拠」から、迫るのだが、推量の域を出ず、結論はでない。今回は、多数決で有罪になったが、そこに模擬裁判の主眼はない。

法技術的なことは、実際に法律の勉強をしなければわからない。しかし、裁判員制度は、市民が判断するわけだから、上質の法感情を養っておく必要がある。したがって、今回は法感情―リーガルマインドにおける説得性を競い合った。その競い合いが、法感情を上質にしていくというのがねらいだったのだろう。

実際に、授業終了後、3人の生徒にインタビューすることができたかが、そのうちの一人は無罪派だった。

「燃えました。自分の正義判断を説得することができませんでした。自分の想いが相手に伝わるようになるには、まだまだ勉強しないととも思いました。」

また、理系に進みたいと思っている生徒は、こんな興味深い話をしてくれた。

「事実認定のために証拠をもとに、有罪か無罪かを議論していく手続きは、ある意味理科の実験などにも通じます。私はプログラミングに関心があるのですが、感性と論理が大切なのは同じです。ただ、模擬裁判で、論理の果てに人を裁くという重たい判断があるのは、つらかったですね」

さらにもう一人の生徒は、

「私は毎日世界のニュースを見ていて、心を痛めています。なんとか解決できないのかと考えています。しかし、今回の模擬裁判の体験を通して、人を裁いて解決することの重たさには、本当に驚かされました。弁護士の方々とも直接会え、やはりかっこいい仕事だなと尊敬もしました。」

と語ってくれた。

どうやら、模擬裁判の授業は、単純に裁判システムを学ぶということだけではなく、社会とは何か、人間とは何か、生きるとは何かなど、社会科を超えた「生き方」教育の価値が横たわっているのではないか。

東京女子学園の教科授業は、教科の内容を学ぶだけではなく、生き方そのもについて深く考える機会を共有しているといえよう。

 

 

 

 

 

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