Created on 11月 27, 2018
今年10月、高校2年の八雲生5人は、ラウンドスクエアの国際会議に参加した。先輩は3年前から、国際会議に参加。今年で三代目になる。ドイツ、南アフリカと行われ、今年は、カナダのオタワにあるAshbury Collegeで開催された。
国際会議となると全世界からラウンドスクエア約1000名の学生が集まる。今年八雲学園は候補校から正式の加盟校として認定され、ラウンドスクエア代表のコンスタンティーン元ギリシア国王も出席された開会式で、グローバルメンバーとして紹介。ラウンドスクエア旗を手にした。
今年参加した高2はある意味、八雲学園の歴史的な特別な瞬間に立ち会ったといえるかもしれない。意図することもなく、コンスタンティーン元国王夫妻ともいっしょに写真に納まった。この写真はこの一枚だというから、時というのは、一期一会だ。
高2生は、カナダに入る前にニューヨークのマンハッタンに立ち寄った。毎年国際音楽交流を行っているイエール大学に行き、来年の国際交流の打ち合わせをするのが目的だった。もちろん、コロンビア大学も訪問したし、美術館をはじめその他ニューヨークを堪能しただろう。
八雲学園での分厚い英語教育や多様な留学の機会に挑戦してきた彼女たち。世界の本物エリートとの交流も経て、準備万端で、国際会議に挑んだ。しかし、待っていたのは、彼女たちが思い描いていたのとは全く違う真剣でハイレベルなグローバルな舞台だった。
ラウンドスクエアの国際会議は、今まで積み上げてきた英語の力を試す中高時代の総仕上げの機会ではなかったのだ。これからが本当の始まりだったと気づいたときには、すでに世界を引き受けた未来のエリートたちとの対話の渦に巻き込まれてしまっていた。
彼女たちが何を見て、何を感じて、何を考えて、国際会議を乗り切ってきたのか、話を聞くことができた。by 本間勇人 私立学校研究家
§1 本場バラザミーティングの凄まじさ
国際会議に参加した高2生は、自分たちが3代目ということもあり、先輩から毎年、苦労話や乗り越え方も伝授されてきたし、そのための準備として3カ月留学にも取り組んできた。だから、緊張感というより、ワクワクして臨めたという。
ところが、Ashbury Collegeに到着して、国際会議が開催されるまでの間、すでに他国の生徒たちが、自由に対話して、まるで十年も前からの知り合いであるかのような英語での話しぶりに、はやくも自分たちは取り残されると思ったそうだ。
もちろん、後から振り返ると、日本人じゃないからといって、みんながみんな社交性を発揮していたわけではないということを了解できるのだが、そのときはそんな余裕はなかったという。
1週間続く国際会議は、バラザ(Baraza)というスワヒリ語で"集会・会議"を意味する言葉をランドスクエアは使っているが、基本単位はそのバラザというチームで活動する。そのチームは、できるだけ異なる国の生徒メンバーで構成されているから、当然八雲生はみな分散される。
その中で、互いに親しくなるのは、意外と難しい。そのため、八雲学園では、国際会議に参加した先輩が、ラウンドスクエア委員会を自発的に立ち上げ、BMYA(Baraza Meeting in Yakumo Academy)を中心に、活動をしている。
当然、今回の高2生も、そのBMYAに参加し、十分に準備を積んできたと思った。しかし、それはあっさり打ち砕かれた。
自分たちが、今まで受けてきた八雲学園の英語教育やサンタバーバラ研修旅行、3か月留学は、そのときにはかなりの試練だと思って頑張ってきたが、実は自分たちにかなり合わせて学ぶ場を作ってきてくれていたのだとすぐに感じたという。いかに見守らて来たのか感動している間もなく、必死に耳を傾け、頭をフル回転し、なんとかアウトプットした。
英語が母国語だったり、公用語だったりしている生徒、インターナショナルスクールで英語を使うのが当たり前になっている生徒ばかりなのである。日本人以外(自分たち以外に日本人はいないのだ)の英語は、あまりに自然で、彼らは国際会議に参加しているのだから、英語は母国語なみだと思っているわけで、八雲生に合わせることなく、話したり議論を仕掛けてくる。
バラザでは、自分の主張を必ず語らねばならないから、議論の文脈の中で、自分の主張を組み立てて語るということが、こんなに厄介なことかと感じたことは今までになかったという。
打ちひしがれそうになったが、そこは八雲生の素晴らしいところで、とにかく自分を主張したという。おそらくついていこうとしたら、壁にもろにぶつかったかもしれないが、彼女たちは自分らしさという軸を取り戻し、思い切り立ち上げて、対話に議論に応じたのだ。
それでも、中3の時にサンタバーバラ研修旅行に行ったときに、自分の言いたいことがきちんと話せず悔しい思いをしたことが蘇ってきたという。ここまでやってきたのに、まだ悔しい思いをするのかと。
しかし、一方で、ここまで続けてきたから、こんな凄い場所で新たに悔しい思いをしながら、何とか乗り切ようと挑戦できているのだという想いも立ち上がてきたと彼女たちは語る。
明治時代に単身米国に留学した津田梅子やオーストリアの伯爵に嫁いだ青山光子がそうだったのと同じような魂を震わせてきたに違いない。