共立女子 渡辺校長 最高価値の実現の道(2)

共立の多様な表現

最高の価値はお金で買うようなものではない。最高の宝物は内面にこそある。その輝きを磨き上げて放つことこそ共立の表現である。

共立の表現活動は、論文、合唱、礼法、部活、文化祭などに豊かに花咲いている。その中で、渡辺校長がいつも例に挙げるのが、中学のときに毎年行う読書感想文を中心とする文章表現の傑作集「ともだち」。読書と文章編集は、あらゆる表現の基礎であるが、ここに「頭のフェイント」があるからである。

読書や文章は、どちらかというと論理的な思考力を養うと思われている。それは間違いないが、それではリベラルアーツは育たないというのである。共立の様々な表現活動が、それぞれ要素として完結していても、それはどのように関係しているのか、関係総体を鳥瞰できる視点を身につけることが教養であり、リベラルアーツなのだからと。

上記写真の冊子の表紙は、美術の時間で行う生徒たちの「想定自画像」から選ばれている。この想定自画像は、鏡をみて、そこに映っている顔を写生しているのではない。内面の自我そのものを描くのである。この想定自画像は、いきなるかけるようにはならない。ここに達するまで様々な仕掛けがプログラムされている。

渡辺校長は、この美術のプログラムを「自分探しプログラム」と呼んでいる。表現とは自分を探す旅であると。ただし、その自分は、独りで生きているわけではないから、中高時代の内面の葛藤は疾風怒濤の時代でもある。作り笑いに満ちた自分であるはずがない。それゆえ、想定自画像は、真剣な表情ばかり。

そして、渡辺校長は語る。冊子の表紙には、3つの関係が隠されていると。1つは、自画像に象徴されている「自分」。2つ目は、「ともだち」という他者としての仲間。3つ目は「ともだち」に隠れている「共(とも)立(だち)」という母校である。つまり、自己、他者、社会の関係総体を見つめられる眼差しを養うのが共立女子のリベラルアーツであり、この眼差しこそ「最高の価値」を見極めることができるのであると。

それから、表現は、「自由」な雰囲気が必要であるとも。だから教師と生徒の関係は、教える―教わるという抑圧的な関係ではなく、共に学ぶ学習者の関係、つまり対話の関係なのであると。

それゆえ、教師も論文を毎年書く。しかも、教科横断型のプログラムの実践報告。学びの自由、表現の自由は、境界線の越境的な知である教養を生み出す。だから各教科の教師はコラボする。しかし、このコラボの環境は、渡辺校長が身体を張って保守してきたからこそ根づいたのである。

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