知識と思考は二元論か一元論か?
大島先生:私たちは授業で、生徒の名前は記憶しています。ということは生徒の名前は、知識です。いちいち出席簿を見ながら、生徒の名前を呼んで、対話することはまずあり得ないでしょう。これはどういう事態でしょうか。
本橋先生:知識が必要ないということを、私たちは考えているわけではないということを示唆しています。20世紀型の教育の問題は、むしろ知識と思考を分けているところに問題があるのでしょう。そうすることによって、試験やテストで知識の記憶が定着しているかどうかに制限して評価しているところに、解なき社会ではそろそろ通用しなくなってきた。そういうことは、体験上多くの人が感じているところでしょう。
大島先生:だから、知識が必要ないではなく、わからなければ、たしかに調べればよいのだけれど、既知の知識については、活用できる状態になていなくてはならないと・・・。
有山先生:既知の知識、すでに記憶した知識を活用するということをもう少し考えたいですね。記憶して、これ何と聞かれたら、一対一対応で回答できるというのも、活用できているということですか。
本橋先生:それもたしかに活用の1つですが、その活用の仕方しかできなければ、考えるということにはならないですね。試行錯誤の過程で既存の知識を活用できるということでなければならないですよね。一対一対応の場合は、マルザーノやブルームのタキソノミーで言えば、「再現」ということではないでしょうか。
菅原先生:名前を覚える話に戻りますが、たしかに顔をみて初めて名前を呼ぶでは、コミュニケーションは成り立ちませんね。さっきの態度はなんだったのだろうと心配したり、研修でがんばっているかなとふと思い出したり、合唱コンクールでがんばったな今度声をかけようとか、そのときはもはやその子の名前を思い出そうとか、名簿をみようとはしませんね。名前を知識とすると、これが知識を活用するという事態ではないでしょうか。
大島先生:つまりそのとき、知識は身についている、暗黙知化している。そうならないと知識を活用しているとはいえない。ウナギ屋で亭主がウナギを料理をしているときに、レシピをみながら作っているのを見た瞬間に、二度とこの店にこようとは思わないのではないですか。
菅原先生:おいしいウナギをお客様に提供したいという意志やおもてなしの気持ちを感じないですからね。
有山先生:知識をとりまく、心配や意志やおもてなしの気持ちなどが「関心」ということではないですか。
本橋先生:知識をめぐる「関心」やもちろん「論理」という文脈が頭の中で動き出すことを思考と言うのだと思いますが。知識と思考がセパレートされているうちは、生徒は思考の過程をたどれないということですね。むしろ知識と様々な文脈がつながっているとき、もはや思考と呼ぶのではないでしょうか。このとき知識と思考は1つです。
大島先生:つまり知識と思考は二元論か、一元論かではなくて、二元論になっている状態の生徒、一元論になっている生徒では、思考のパワーが違うということですね。私たちも、自動車がぶつかってエアバックが出てくることは知識として知ってはいる。しかし、そのエアバックが必ずしも安全ではなく兇器にもなるということは知らない。なぜそうなるのかはまして知らない。この状態では、私たち大人だって、知識と思考の二元論になっている。
菅原先生:熟達とか達人という場合、知識と思考は一元論というわけですね。
大島先生:それが論考で書いた「知のネットワーク」ということですね。ある知識についてネットワークが増えていく。はじめは二元論だが、ネットワークが新たに増えていけば、やがて知識と思考は一元論化しているといえそうですね。知識をノード化して、知のネットワークを増やしていくというのが、私たち21会の学びとか思考に関する考え方という結論となりそうです。
本橋先生:知のネットワークが広がる場を設定し、生徒がどの知識をノードとして問いを立ち上げるかについて、明瞭になりました。ただ、大島先生のネットワークにはベクトルの方向性とかベクトル量が暗に示されていますが、これにはどんな意味があるのですか。
大島先生:さすがは数学の先生ですな。そこまで意識しなかったですが、そこを意識化しましょう。またまた問いが立ちあがりましたよ。