東京女子学園 梅香祭 創造的才能の発揮(3)

東京女子学園のクリエイティビティは、女学生の系譜の現代化から生まれてくる特徴が際立っていることがわかったが、そもそも創造性の源泉はどこかというと、それはとにかくlearning by makingから始まるということである。それは、創作ダンスや筝曲の演奏、吹奏楽、美術などの芸術だけではなく、理科、数学、社会など各教科にもあてはまるほどの徹底ぶりである。

「観察・調べる・考える」は描くことから始まる。

理科のレポートは、科学的に考える前にまず観察、そして図を正確に描く。

リサーチャーの永田氏が、大学の先輩でもある数学の小林俊道先生に話を聞いたところ、

「昨今、数学というと、解き方を効率よく勉強することだと思われています。本来は、生徒たちの持つ想像力や応用力、探究力等、多方面に渡って有効であろう能力を引き出せる教科であるはずです。本学園では、それを踏まえ、生徒たちが公式等を考える際、実際にそれが現実に成り立つことを実験や作図等を通して気づいてもらえる環境を創意工夫しています」と。

まさにlearning by makingの手法そのものである。

教科活動のコーナーで、歴史部の歴女たちが生まれるには、この「調べる→編集→表現」という新聞づくりのリサーチ学習が、ふだんの社会科の授業で積みあがられているからであるということに気づいた。

クリエイティビティにはコラボレーションとコミュニケーション

展示コーナーやプレゼンやパフォーマンスのシーンでは、創造された作品や演技という氷山の一角しか見えない。しかし、会場を歩いていると、こうしたクリエイティビティは、氷山の一角で、ふだんは水面下で見えなくなっているものも見ることができるチャンスがあった。

ダンス部がパフォーマンスをしている場面については、すでにご紹介した。会場である体育館は満席状態だったのだが、それは黙っていてそうなったのではない。開演まで、PRする部隊が活躍していたのだった。

 

模擬店をサポートしている保護者の方々が、PR部隊の手拍子に合わせて、一体になっている。部内がコラボレートするのは当たり前ではあるが、部内を超えてコラボしなければパフォーマンスは成功しない。今回の「梅香祭」のテーマは「Family 今、何かが始まる」だった。ダンス部のPR部隊と保護者の一体感は、その体現と言えよう。しかし、このシーンは風のごとく一瞬にして過ぎ去ってしまう。遭遇できてラッキーだった。

吹奏楽部のパフォーマンスも興味深かった。アフリカン・シンフォニーやビッグバンドビートなど、相当練習していることが聴衆者に響いてくるほど迫力があったが、踊りあり、ソロあり、突然コミックバンドさながら、きゃりーぱみゅぱみゅのパロディーをやってのけたりした。

そして、すてきだったのは、受験生の挑戦を受け入れたことだった。指揮者体験コーナーで受験生の指揮に合わせて「小さな世界」を演奏。指揮者を体験した受験生は興奮がいつまでもさめなかっただろう。

吹奏楽部のコラボレーションと会場を引き込むコミュニケーション。クリエイティビティが思い存分解き放たれていた。

そして、完全に暗室になっている2つの部屋を見つけた。1つは軽音部の部屋。はいるや身体の内側の感覚が全部外に飛び出るほどの衝撃的だった。

そしてもう一つは演劇部の部屋。東京女子学園は、氷山の一角と水面下の氷、アウトプットとインプット、現代化と伝統などいった内なる魂の解放と醸成が見事に対をなしている。軽音部の解き放たれたエネルギーと演劇部の内なる魂が震えているシーンは対照的なピースだった。この2つは、まさにヘルマン・ヘッセの「荒野の狼」のテーマに通じていた。このテーマは、もちろんアメリカの世界を揺るがした時代を画するテーマ。そのエネルギーがここにあるとは驚いた。

暗い部屋に、光と暗闇という目まぐるしい暗転が、モノクロ、デジタル、ハイパーテキストなどのコンテンポラリーワールドの小宇宙をつくていたが、さらに演技終了後、かけつけた先輩や先生とすっかり打ち解けた姿がまぶしかった。それも演戯?とたずねたところ、ご想像にお任せしますと即答。ペルソナのイデーが内なる魂を形作っているというのがすぐに了解できた。

このペルソナのイデーを知ってしまった演劇部のメンバーは、実際に演劇で生計をたてている先輩をみて、未来を悩むのである。ペルソナと魂の一致は、演戯をしている自分なのか、生活をしている自分なのか。そんな話が沸いたが、ここにも互いに対照的なものがあり、しかも反転し合っている。それは有名なルビンの壺のように、地と図が反転して固定的なものの見方を許さない。東京女子学園の教養の奥行きだなと感じ入った。

実は、米国の名門私立学校では、ドラマ教育や合奏、コーラス、ダンスなどパフォーマンス教育は創造的才能を養う重要な学びの場である。かつて日本でもそのような教育は盛んだったが、だんだん忘れ去られている。合理的進路先教育にとって役に立たないというドメスティックな判断だからだが、今やグローバル人材育成時代。復権しようという動きがある。ここでも東京女子学園は昔から先進的教育を実践してきたが、今やそれが21世紀型スキルであるといわれ、4C(クリエイティビティ、コラボレーション、コミュニケーション、クリティカルシンキング)が求められているほどだ。

21世紀スキルのタブレット

東京女子学園の英語教育といえば、先進的ICT教育も一つの柱。しかし、梅香祭では、前面にでていなかった。ここでも地と図が反転していた。普段の授業ではICTは前面にでてくるが、文化祭では、英語のパフォーマンスが前面に現れていた。

しかし、普段の授業を見ていないリサーチャーの永田氏は、英語のICT教育に興味を持っていたため、辰巳順子先生(校長補佐)が丁寧に説明してくださった。

英語の授業では、iPadを活用しています。生徒一人ひとりが、自分に必要な単語のネイティブの発音を確認できたり、自分で分からないことを調べたりすることができるアプリをたくさん探し当て、提供しています。学校としては、iPadの活用を発売当初から考えていました。留学や海外研修などで思う存分英語のコミュニケーションを楽しんでもらいたいわけですから、英語に触れるチャンスをできるだけ支援したいのです。リアルな英語のコミュニケーションもたっぷりとりますが、アプリを使ってちょっとした時間にも英語を活用できるようにするには、タブレットにダウンロードしたアプリは素晴らしい道具です。今年の秋には、英語科でつくったオリジナルのアプリも公開します。既存のものは、すぐに物足りなくなります。それだけ生徒が成長しているということですから、成長に合わせた最適なプログラムの開発に常に挑戦しているのです」と。

生徒の成長に合わせてアプリを開発していくということこそクリエイティビティそのものである。ここにもタブレットを活用して効率よく学んでいく授業とそのアプリの準備をするために、挑戦と創造に膨大な時間を費やしている先生方のあくなき追究が対照的に存在している。

氷山の一角は次代の先端をいくプレゼンや作品のディスプレイ、パフォーマンス。一方その背景は、創造性を生み出す魂の醸成に余念がない。その対照性は、与謝野晶子だったら、アポロとデュオニソスの神話のアナロジーで語ったかもしれない。

もっとも、東京女子学園の場合は、その前面と背面の仕掛けの象徴は、受付でおもてなしをしている生徒会のメンバーのコスチュームにシンボライズされていた。それぞれの笑顔。そして魂は1つ。

多なるものは1であり、1なるもの多である。欧米のリベラルアーツのイデーである。最近では、individualeは「個人」ではなく「分人(in-dividual)」としてとらえ返そうというアイデアが、芥川賞作家平野啓一郎氏から提唱されている。朝日新聞(2009年8月19日)によると、

「分人」とは、状況や相手により異なる「自分」になるという概念。「キャラの使い分け」とは違う。「その場限りの仮面」の裏に「本当の自分」があるわけではないからだ。「多重人格」とも異なり、相手と協同して「自分」が成り立つ。平野氏は「閉ざされた共同体では一人の個人で通用したが、都市化やネット社会化で人はバラバラな顔を持ち、場に応じて自己を調整する能力が求められる。人格が変わることはネガティブに思われてきたが、肯定した方が楽になる」と語る。

作家は時代の本質を作品に反映する。どうやら東京女子学園の女学生は,、平野氏とはまた違うだろうが、新たなindividualの未来を創り始めたようだ。それが4C(クリエイティビティ・コラボレーション・コミュニケーション・クリティカルシンキング)に込められた21世紀型教育の根底にあるのを、東京女子学園は見出しているのかもしれない。

「学年でトップを競うような生徒が、コメディを演じたりしているんだね。文武両道以上に多彩な生徒たちの姿を見て頂き、そしてその生徒たちを支える教育の奥行きの深さを感じてもらえれば嬉しいかな」と實吉校長は、テニスコートで吹奏楽部のパフォーマンスを見ながらつぶやいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Twitter icon
Facebook icon