八雲学園の英語教育 ブレない人間力が育つ(3)

英語劇「グリー」を演じる高校生の姿勢が示唆するもの

(「英語祭」でそれぞれの役割を演じ切っている高校生)

榑松先生:高校生が今回参加して得るものが多かったと振り返ってくれたことばに私たちは学ばなければならないと感じている。最初は滑舌、滑舌にこだわっていたから、ただわかりやすく表現するのではなく、役をつくるとは何かから対話した。

英語の発音が良い生徒は、それはそれでよいわけであるが、それをそのまま使うと、それは自分であって役は作れないわけだ。では仮に滑舌のよくないキャラクターだったとしたらどうだろう。滑舌悪く台詞を言えばよいのだろうか。それは違う。もしそんなことをしたら、観客は聞き取れない。わかりにくい。

わかりやすさのために滑舌をよくするのも、滑舌をわざとわるくして役作りをするのもどちらも美味くない。滑舌と感情表現のバランスをどうつくっていくのか、それが問題だ。

では、どうすればよいのか?残念だが、マニュアルはない。だから先輩後輩の気を遣うことなく、思ったことを話し合う。つまり、台詞を語っていないキャラクターが、聞き取れない役割を演じるなど、相互の関係で表現していけばよいというアイデアが生まれたりすればそれでよいのだ。

互いにどういう反応をする関係が、観客の目に映るのかが問題で、その関係、つまりバランスを観客はどう理解すればよいのかは、観客の演戯なのである。

近藤校長:それができるには、想像したものが共有される必要がある。想像したものが共有できるには、それぞれの役の人間の生き様の特徴が演じられていないと、こう話したらこうなるということを想像して展開をつなげることができない。

それには役を演じることを掘り下げていくことが大切。そこを榑松先生は話し合ったということだね。

榑松先生:おっしゃる通り。グリーという作品は、まさに高校生の生き様。コーラスクラブの生徒たちが音楽室という空間で語っているドラマ。そこには、青春時代の悩みも葛藤も喜びも、そして人の目を気にせず、マイウェイを貫く自己決定もみんな詰まっている。

彼女たちは、ドラマに自分たちの生き様を重ねながら、掘り下げていくし、自分の性格とは違うキャラクターを演じ切ることで、自己と他者の差異とどこで共鳴できるかを体験していく。しかもここにおける他者とはアメリカ人の高校生の話だ。

近藤校長:なるほど。日本人にとって異文化理解とか、グローバル教育といったときに、どうしても英語のハードルはクリアしなければならない。単語や文法も憶えるものは憶えなければならない。それはそれで極めて重要だ。しかし、そのスキルの次がなければ、異文化理解もグローバル教育も本当の意味では成り立たない。

それには、自分の関心や関係する人や事を掘り下げておく日々の生き方だね。それがやはり重要だ。百人一首大会と英語祭の行事は異文化理解やグローバル教育の掘り下げのきっかけをつくる環境になっていると改めて感じ入った。

そして、そのきかっけから目の前の生徒がさらにどう成長するか命がけで教育をする教師の存在が大切。今回のように生徒自身が自ら高いハードルに挑戦してきた。これからどんどんそういう生徒がでてくるだろう。そのとき、私たち教師は今までと同じことをやっていたのでは、その生徒の成長への意欲に応えられないだろう。だから私たちはもっともっと進化することを止めることなどできないんだよ。

 

 

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