東京女子学園理事長・校長 實吉幹夫先生 疾風怒濤の精神に返る(1)

昨今のメディアで、グローバル教育、スーパーグローバルハイスクール、スーパーグロ―バル大学、アクティブラーニング、21世紀型スキルなどの言葉を見ない日はない。政財官学挙げて方向転換しようとしているのだろうが、果たして、それは方向転換といえるのか?本当の問題はどこにあるのか?
 
カントやゲーテが思想的に活躍した疾風怒濤の時代の精神の重要性を説く實吉幹夫先生(一般財団法人東京私立中学高等学校協会副会長・東京女子学園理事長校長)に聞いた。by 本間勇人:私立学校研究家
 
 

 
§1  「グローバルな時代」は「哲学の時代」
 
實吉先生:「グローバル」という言葉が教育政策の中で使われるようになったのは、2000年以降。それまでは、「国際理解教育」「バイリンガル」という言葉が使われていたと思う。今ではすっかり「グローバル」という言葉に置き換わってしまった。
 
 実は、それゆえ少し疑ってかからなくてはならないと思っている。高度経済成長絶頂期に、四六答申が出て以来、「個性」を重視するという方向性が打ち出された。子どもたちの「個性」はたしかに大切で、彼らが自分で自分の才能を見出し伸ばしていく環境をつくることは大切だ。しかし一方で「個性」は、ある意味経済合理主義の象徴になっていく。
 
教育行政はどうしても時の政治経済の影響を受けるからね。そうこうするうちにオイルショック、バブル経済崩壊、核家族化の問題と問題山積。それに対し、ますます自己責任がベースになってしまったかのような「個性重視主義」と「国際理解教育」が臨教審以降急に浮上する。
 
 
しかし、長期デフレは、それをさらに加速し、今や「グローバル」というラベル1つで何か新しい政策に転じるかのごとく講じられている。
 
教育において、未来からの留学生の幸せを守り抜く使命のある我々にとって、それは、果たして、本当の問題なのだろうか。四六答申以来、「個性」を大切にするという「個」とは何か問うてきただろうか?かりに「個」から「グローバル人材」に転換するとして、1人ひとりの価値観やものの見方が本当に変わったのだろうか?
 
「国際理解教育」から「グローバル教育」へ移行したからといっていったい何が変わるというのだろう。
 
たしかに、世界同時的に「グローバル」と大合唱しているのだから、何かが転換しているというのは直感的に理解できる。だが、いやだからこそ、今一度立ち止まって未来から振り返り、短期的思考や対処療法、近視眼などになっていないかどうか考えることは、一方で必要だと思う。
 
 
その都度立ち止まって考え巡らす。クリティカルシンキングという言葉も、昔からあったが、ここにきて教育に限らずどの分野でも叫ばれている。このクリティカルシンキングも一体何か考える必要もあるだろう。
 
どうやら、「グローバル」な時代は、「哲学」の時代であると言っても良いのではないだろうか。哲学なきグローバルは愚かだし、グローバルなき哲学は偏屈だということか。
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