東京女子学園理事長・校長 實吉幹夫先生 疾風怒濤の精神に返る(2)

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§2 カントに還る
 
實吉先生:「哲学」の時代といっても、ハイデッガー以降の現代思想に詳しいわけではないが、ハイデッガーにしても現代思想家にしてもカントを抜きに自分たちの「哲学」を語れないだろう。だから、現代思想家と同時代人として、我々もカントに立ち戻りたい。
 
 

 
カントは、教育でいう「学力」「道徳」「自己判断」という領域すべてを考え抜いた。そしてその基本的な発想に、「物それ自体」と「現象」というものをきちんと分けて考え抜いていったということが重要なのだと思う。
 
我々も、このカントの発想を大切に様々な議論をすべきだと思う。四六答申、臨教審を通して重要視された「個性」や「国際理解教育」。それは「現象」としての「個性」や「国際理解教育」に過ぎないのか、どこかで「物それ自体」とつながっているのかどうか。
 
こういうと、「物それ自体」は不可知なのだから、結局はあってもなくても同じで、「現象」であるかどうかより、今役に立つかどうかが重要である。その基準は市場で測られるという考え方をする人も出てくる。
 
実際、経済合理主義の先鋭的な発想である新自由主義はそういう考え方が濃厚だ。
 
ここでも「市場」とは何かということだ。「市場」によって支持されるかどうかは我々も重要だと思っている。しかし、教育において、市場でチェックされる教育の質は、「現象」のみに左右されてよいのかということは立ち止まって考えるべき重要な論点だ。
 
 
(東京女子学園は、廊下も学びの空間になる。生徒が自由に居場所を生み出す。)
 
この立ち止まって考える姿勢は、「現象」とは違う「物それ自体」があるのかもしれないという発想がなければでてこない。
 
この発想がないために起こることの例は、実は周りにいっぱいある。目先の利益を考えて行動する。問題が起きたとき対処療法的に対応する。損得勘定で選択判断する。ある意味、これらは人間の性でもあるが、そこを転換したいと思ったとしたら、それは未来からの留学生のことについて考えるような長期的な展望が、「現象」を超えて必要になってくるだろう。
 
だから、今中央教育審議会でも「道徳の教科化」が審議されるスケジュールが予定されているが、この場合の「道徳」とは何を意味しているのだろう。
いろいろあって良いでは、こればかりは困る。いま「いじめ」が多くなっているから、それを規制するために「道徳」が必要だとか、SNSの利用による凄惨な事件が目に余るから、「道徳」によって歯止めをかけるべきだという議論がある。その延長上にもし「道徳の教科化」があるとしたら、それは果たして「道徳」だろうか。
 
「いじめ」やSNSによる事件は絶対に見逃せない。しかし、そのような非道徳的な行動が生まれる本当の問題は何かを考えて「道徳の教科化」が議論されているのだろうか。
 
「道徳」は「自由」の問題と表裏一体。カントのいう道徳律は、普遍的がゆえに「自由」を保障する。しかし、「道徳の教科化」と言ったとき、「自由」を規制するものとなるのではないか。そこを議論することができるのか。
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