東京女子学園理事長・校長 實吉幹夫先生 疾風怒濤の精神に返る(3)

§3 「グローバル化」とは何か
 
實吉先生:「グローバル人材育成」も、スーパーグローバルハイスクールの構想に象徴されるように、教育現場でも語られるようになった。東京女子学園でも、留学や英語教育には力を入れているが、「グローバル人材」を育成するために行っているわけではない。結果的にそうなるかもしれないが、それ以前に「人の中なる人となれ」という教育理念を実現する大切な教育の実践として位置付けている。
 
 

 「グローバル人材」といったとき「グローバル」とはどういうことなのか立ち止まって考えてみる必要がある。「現象」だけとらえてしまうと、今のグローバルな経済は、かなり短期思考で動いていて、それが経済合理性だということになっている。
 
 長期的視野に立って、広い視野をもって展望できるようになってほしいと願って国際教育を実践してきた我々にとって、グローバル教育というのが、こういう短期思考を追ってしまうものだとしたらそれは立ち止まって考えざるを得ない。
 
 ケインズは、株価は人気投票でファンダメンタルな影響はほとんどないと言ったが、昨今の経済政策は、まさにその通りで、長期思考でグローバルな経済政策を練っているとは考えにくい。
 
 「グローバル人材」とは、むしろ長期思考で、未来からの留学生にとって幸せな社会をつくる広い視野をもった人材だというのなら話はわかるが、そういう議論がなかなかされない。
 
 
(東京女子学園の英語は、教師どうしの頻繁な打ち合わせのコミュニケーションが要になっている。)
 
 東京女子学園でも英語教育には相当力を入れている。しかし、大学受験で役立つ英語力以上に、もちろんそういう英語力は当然大事だが、英語を通して価値観や文化が違う人と互いに尊重してコミュニケーションがとれるようになるために必要だと思っているし、そのようなコミュニケーションでは、自分で考えて自分で判断しつつも、共感や納得が得られるような普遍的な考え方ができるようになる必要があると考えている。
 
 それを「国際教育」ではなく「グローバル教育」という名称で表現しようというのであれば、それはそれで構わないが、「グローバル」という現象がトレンドだからという理由で、「国際教育」のラベルを「グローバル教育」に貼りかえるというだけであるのなら、立ち止まって考えねばならないだろう。
 
 
(東京女子学園のワールドスタディーは、英語のスキルと広い視野の両方をトレーニングする。)
 
 まさかとは思ったが、「グローバル化=英語」と思っている人は意外と多いという話を聞いた。そうであるならば、英語圏の人々はみなグローバル人材ということになるが、そうでないことは立ち止まって考えるまでもなく明らかだ。
 
  先ほどカントに戻ろうと言った。カントの発想でいえば、英語は英語圏ではない国の言葉に対し、普遍的なのだろうか。英米で語られるグローバルスタンダードというのは、他の国のスタンダードに比べて普遍的なのだろうか。
 
 本来グローバルというのは、超国家的な動きであり、越境的な動き。フラット化が進む中で、特定の国の価値や文化がスタンダードになるという発想はないはずだ。
 
 ここでいうフラット化とは、金太郎飴になるということでは、もちろんない。それぞれが尊重し合える存在だということだと思う。
 
 
(中1から英語の授業はコミュニケーションに満ちている。)
 
 ある人が、「グローバル化の本質は現地化することだ」と語ったが、まさにそうではないだろうか。
 
 海外からやってきた優秀なビジネスマンは、日本語が堪能であるのは周知の事実。彼らの意識も、ビジネスはその国の言葉でという発想があるからだろう。
 
 かつてキリスト教を布教しようと海外から宗教家がやってきたとき、彼らは日本語を学んでいる。あの大航海時代もグローバルの動きのケースの1つだと考えれば、「グローバル化の本質が現地化である」という発想も間違いではないだろう。
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