聖パウロ学園高等学校 21世紀型教育の意味

聖パウロ学園高等学校(以降「聖パウロ学園」と表記)は、高尾山の裾野に広がる森の中にある。東京都内で、このようなマインドフルネスな環境にある学校は他にない。冬になると、雪景色は美しくも厳かで清らかな時空が流れる。

自然体験あり、乗馬あり、まるで、ソローやエマーソンが森の小道の向こうから現れて、自然と社会と人間存在についての対話を誘うような雰囲気である。彼らの信条は、マハトマ・ガンディーのインド独立運動やキング牧師の市民権運動の精神とシンクロする。

そして、聖パウロ学園自身、20世紀型教育で、学力格差や偏差値競争によって、自らの潜在的才能に気づくことなく自己肯定感を持てないように強いられてきた生徒に自信と勇気を回復する場としてやはり共通した精神が流れ広がっている。by 本間 勇人 私立学校研究家

 

学校案内を開くや、こう問いかけてくる。

変わり続ける21世紀をキミたちはどう生きる?

高校3年間で、生徒たちは、森の中で、少人数クラスの中で、部活の中で、文化祭の中で、オーストラリアの研修で、自分を見つめ、他者を受け入れ、man for othersの精神を胸に、自分の道を森の小道の向こうに見つけていく。

聖パウロ学園の英語の授業は、オールイングリッシュで展開し、PBL型授業。英語力を学ぶだけではなく、教師と生徒、生徒と生徒による対話によって、多角的な視点を見出していく。グローバル市民として、人間存在を大事にし、自由を大切にするには、世界的市民の視野を広げる必要がある。

テキストもケンブリッジ出版のものを使い、そこから動画に飛びグーグルマップに飛ぶには、Webも活用する。聖パウロの英語教育は、今年4月から、グローバルコースも開設し、帰国生も入学してくる。日本語と英語、イタリア語、フランス語などの多言語に対する対応は、多様性の環境が不可欠だ。

英語で対話し、互いに創造的思考を交わすことができる英語のPBL型授業は、少人数クラスで、自然の環境の中だから最適なのかもしれない。

聖パウロ学園は、カトリック学校だから当然宗教の時間がる。そこでも聖書は日本語と英語だ。しかも、主の祈りを手話を通すことで、その意味を身に染みて感じるというlearnnig by doingも行われる。対話と体験というのは古くて新しい授業である。21世紀型教育は、新しい道具を活用しながら、20世紀政治経済社会によって忘却のかなたに追いやられてきたかけがえのない存在の価値を取り戻す教育でもある。

聖パウロ学園の授業は、教師と生徒の問答が絶えることのない対話の授業であるが、数学のように、生徒同士が教え合う場面も多い。教えることが伝わることに必ずしもならない歯がゆい体験こそ、数学的思考を教える自分が本当はまだ分かっていないのではないかというリフレクションを誘うし、教えられる側も、素直に疑問をぶつけることができる。

問答や対話や教え合いは、柔らかい関係性をつくる機会を生み出し、互いに自己変容するGrowth Mindsetを開いていく。自他のつながりが生まれる時にこそ、自己肯定感の発露が生じるのである。

柔らかい自然採光に包まれながら対話が中心の授業が日々行われていく。知識を覚えて再現するだけの授業から、対話をし、論理的で創造的な思考を大きく回転させていく生徒。その思考の回転は小宇宙の渦となり、そこに真理が顔をのぞかせる。

そのとき「私はこう生きる」という自分にとってかけがえのない価値が出現する。真理は個人に働きかけるからである。一人ひとりが、他者と違う自分の才能に気づくという真理の働きかけこそ「私はこう生きる」という仲間の集合を創り出す。

 

この体験が、大学や社会に進み、誰かが決めた基準に振り回されるストレスの中で、自分の才能に基づいた思考や判断をすることの大切さを共に気づいていこうと語りかける行為をする人材を聖パウロ学園からは生みだす大きな契機になる。

グローバルとは、政治経済的には、ひと・もの・かね・情報の分断を超えるもではあるが、人間存在という側面では、自己と他者の壁を越境し、互いの価値を分かち合う心の場を創ることでもある。

才能の芽を摘まれないように、小さくなって生きてきたキミ、聖パウロ学園で花を開かせようではないか。

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