日本語IBやスーパーグローバルハイスクールの構想など、グローバル人材育成をめぐる政策に関する報道が盛り上がりを見せている。一方で、グローバル教育の中身については、漠然としたイメージだけが先行している感も否めない。21世紀型教育を創る会(21会)の分科会の一つ「グローバル教育部会」は、座長の江川先生の呼びかけのもと、21会が目指すべきグローバル教育についての議論・対話を行うべく、2013年11月15日(金)18時に文化学園大学附属杉並中高に集結した。 by 鈴木裕之:海外帰国生教育研究家
写真は左から、青井先生(文大杉並)、江川先生(佼成女子)、伊藤先生(戸板)、白鶯先生(富士見丘)、辰巳先生(東京女子学園)
Inquirers | 探究する人 |
Knowledgeable | 知識のある人 |
Thinkers | 考える人 |
Communicators | コミュニケーションができる人 |
Principled | 信念のある人 |
Open-minded | 心を開く人 |
Caring | 思いやりのある人 |
Risk-takers | 挑戦する人 |
Balanced | バランスのとれた人 |
Reflective | 振り返りができる人 |
伊藤先生:「学習者」という概念が、生徒だけではなく、教師や親も含めて捉えられているのは、なるほどなと納得するところがありました。一方で、ここに掲げられている目標は、日本の私学が何らかの形で教育理念にしてきたものと重なるものですね。ただ、日本の場合、大学入試制度によって本来の教育のあり方が阻害されているという問題はありますけれど。
辰巳先生:たしかに、IBで掲げている学習者像は、どれもこれもよいものばかりですね。でも、日本の私学が大切にしている建学の精神と変わらないと思いますよ。私学も、学校行事や部活動を通して、全人教育をしてきているはずです。強いて日本の教育がIBの理想に比べて物足りないと思われる部分は、コミュニケーション、あるいは主体性の発揮という面でしょうか。これはただ、伊藤先生もお話されたように、受験対応の勉強が前提になっていることの弊害と言えますね。今の大学入試の問題を解くのに主体性やコミュニケーションはほとんど不要ですからその部分が育たないわけです。ですから、IBを全面的に取り入れるということではなく、生徒が主体性を取り戻すような教育を各学校それぞれのやり方で実現していくことが大切なのかなと思います。幸い21会では、毎回刺激的なお話が聞けて、資料がどっさりと(笑)配布されるので、参考にしています。
青井先生:本校では《グローバル》コースを新設するにあたり、欧米のカリキュラムをかなり研究しました。すると、例えば、IB Diplomaの中にあるTOK(Theory of Knowledge )や、Extended Essay のような教科間を貫くプログラムは何もIBだけのものではないということがよくわかりました。哲学、あるいはクリティカルシンキングといったコアプログラムが、欧米のカリキュラムに当たり前のように用意されているというのは新鮮でした。
白鶯先生:10の学習者像やIB Diplomaのダイアグラムを見ていてなるほどと思えるのは、学習者が円の中心にいて、教科が円の周縁に位置しているということです。これは日本の従来の教育のイメージとはずいぶん違いますね。授業と言えば、教科を教える場で、学習者像で言われているようなことは、道徳やホームルームといった正規の授業以外で育成するという感覚の教員がまだまだ多いように思います。大学入試という現実の制度がやはり授業を規定してきたと言ってよいのではないでしょうか。
青井先生:欧米のカリキュラムの場合、選択できる科目も多様でフレキシブルですね。IBでは「情報テクノロジーとグローバル社会」なんていう科目もあります。日本は、教科中心と言っても、それが固定化されてしまって現実にそぐわなくなっている危険性があるのではないでしょうか。
江川先生:みなさんの意見を集約すると、日本の私学が掲げてきた理念は、グローバル社会における多様な価値観に合致している一方で、国内の大学入試制度や中央集権的な教育行政が壁として立ちはだかっているようですね。
ちょうどタイムリーな話題として、日本経済新聞が「大学は変われるか」という特集を組んでいました。今日はその第1回の紙面をコピーしてきたのですが、そこでは、一方通行の講義を改め、学生同士の議論を促し、主体性を引き出すということが書かれています。生徒が教員に質問したり、生徒同士が議論したりという授業になれば、当然現在行われているテストとは違う能力が試される選抜試験の内容になってくるはずです。その部分は、大学側だけに任せるのではなく、高校の先生がもっと注目していく必要があるでしょうね。