八雲学園 体育祭「愛と革命と自由と」(4)

八雲学園の体育祭は感性教育の結晶である。このことの意味するところは、実に重要であり、多くの学校教育における体育祭と決定的に違う。その違いとは何か?

体育祭であるから、身体能力を競い合い、自分の限界を超える競走。これは当然ある。勝者は、全校生徒に称えられる。

しかし、この基本的な身体能力をベースに、それぞれの才能を表現する場があるのが八雲流儀の体育祭。

ディズニーやミュージカルばかりではなく、和太鼓の世界をつくりだしている生徒もいる。

各学年のダンスもすばらしいが、八雲学園は常にもっともっととハイエンドなパフォーマンスを求める。それを見事にやってのこけるのが、ドリル部である。

そして、あらゆる行事に響きの風を舞い上がらせるのは吹奏楽部。身体能力といっても、五感をフル回転させる創造的活動が満載なのが八雲学園の体育祭なのである。

しかし、この五感を活かす創造的活動は、一日一日のトレーニングが重要なのである。トレーニングは、意識と超意識の無限の循環である。意識をしていてはパッションを表現するパフォーマンスができない。

意識がないと振り返って、スキルを進化させることができない。このパッションとセオリーの両方のトレーニングこそ、感性教育の肝である。自主的な活動と言っても、自由にやっていても自主的な活動はできない。自由がなければ自主的な活動はできない。

この限界を超えるには、常に一歩先の目標が必要である。先輩は後輩の目標である。先輩はOGが目標である。しかし、何よりも大きな存在は教師である。縁の下の力持ちであると同時に大きな目標であることが、近藤校長が教師全員に求める「もっともっと」なのである。

この八雲学園の感性教育の全体が集約されるのが八雲の体育祭。行事の一部としての体育祭とは大きく違うのである。

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