富士見丘学園 学ぶコトは考えるコト(2)

■ダブルクエスチョン

3つの対話は、単純にマズールに比べ、量が多いからパワフルだというわけではない。3つの角度から対話することができるから、複眼思考をせざるを得ないという意味でパワフルなのである。しかし、本当は問い自体がパワフルなのである。

たとえば、今回のテーマは「わたしは誰?」なのであるが、これはもちろん言うまでもなく難問であるが、内容の難しさと、そもそも「わたしは誰?」というの問いはどういう諸関係をそこに立ち上がらせるのかというもう一つ問いが隠されている。いわば、ダブルクエスチョンなのである。

 

何のことを言っているのだろう?さすがは哲学教室である。難解だ。しかし、大島教頭は説明することをしない。まずは、この質問を品田先生にしてみようとロールプレイによる体験につなぐ。すると、生徒はすぐに、「わたしは誰?」という問いを他者にするのはどうも居心地がよくないということを理解する。

品田先生はにっこり笑っているだけである。がしかし、これがとても大事な伏線なのであるが、それは矢継ぎ早に投げられる問い、そして仲間との対話の反復で、徐々に明らかになっていくのだ。

 

問いは、イソップ童話の「欲張り犬」、チンパンジーの生態、幼児期の映像など英語バージョンの動画を見ながら投げられる。どういう内容なのかという意味を問いつつ、そこが主眼ではなく、もう一つの問いは、そこで起きている現象が意味することだ。対話をしながら、欲張り犬と水面、チンパンジーと鏡、幼児期と鏡の共通点に気づいていく。まさにダブルクエスチョンの輻輳構造。

素材そのものは、ラカンの鏡像段階論から引用しているということのようであるのだが、ラカンを学ぶことが問題ではなく、水面や鏡という「自分を映し出す」道具、つまり他者や自己をつなぐ=媒介する道具によって動物と人間では認識のあり方が違うことに気づいていくのである。

 

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